1954-12-06 第20回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号
それで、残つた方々は、全部帰りたいけれどもなぜ残したかというので相当闘つたのですが、間違いなく次の船で帰すからというので、残つた方々は涙をもつて残つて、次の船が来るのを待つているのであります。その間、いろいろな人にもめぐり会つたりしたのです。
それで、残つた方々は、全部帰りたいけれどもなぜ残したかというので相当闘つたのですが、間違いなく次の船で帰すからというので、残つた方々は涙をもつて残つて、次の船が来るのを待つているのであります。その間、いろいろな人にもめぐり会つたりしたのです。
労働組合側としても、これを一応合意したという経緯があつたのでありますが、要するに昨年十月、日米両国政府代表によつて調印された基本協定が実施に移されておりますれば、駐留軍労働の労使関係はもつと改善されておると思うのでありますが、残念なことながら、この基本協定が昨年のゼネストをかけて闘つたのでありますが、この基本協定がまだ実施されていないという、こういう実情でありますので、非常に遺憾なことであつたのでありますが
しかし来てみますと、やはり学校に行きたい、学校に行くために闘つたのだ、しかしだめだつたということを聞いたので、会社が言つておることが何であるかということもはつきりわかつたわけです。
これにつきましては、昨年の十二月に公聴会がございまして、われわれもこれについて必死に闘つたのでございますが、その結論はまだ出ておりません。三月末までにはわれわれの言いたいことは全部言えという向うの指令でございましたので、三月までに全部のデータが出ておりまして、その結論は多分今年の五月あるいは六月に下ると思つておりまして、これはまだ懸案中でございます。
最後はわれわれだけほんとうに粛然として命がけで闘つたのであります。まだ天候のいいころには、アベックやら外人やらあらゆる人たちがたくさん登つておつたのでありますが、八合目以上から頂上で大便もすれば小便もする。いろいろなことをやつております。カン詰のからや、はな紙や、あらゆる汚物が散乱しておるのであります。
私はその中で非常に給与の問題で闘つたのでありまするけれども、なかなか改善はされませず、終始非常に悪い給与で過したのです。現在、私、体重は四十七キロちよつとになつておりますが、当時はもう少し減つておりまして、ちよつと立つて歩くのにもふらふらするような状態でありました。
あのときのことをお考えになれば、それで公共の福祉のために闘つたのではないかというような反論もできると思うのですが、これはどうでしようか。
併し私どもは決して日本共産党の指導でなく、本当に我々は現在賃金で食えないのに五%も下げられるという、その点から闘つたのでございまして、当然闘争は相当苦しかつたということは事実であります。従つて何日経つても団体交渉にも応じない。四十日目で漸く交渉が始まつたというような段階においては、当然最後の手段もこれは辞せないというような決意を固めたのであります。当然それに従つて指令も出しました。
そこでやはりこの問題についてもう一つお伺いいたしたいのでありますが、今日の官公吏の給与は――私も大蔵大臣をやつたことがありまして、そのときにはずいぶん官公労の諸君と闘つたのであります。しかしながらこれはむろん財政上の都合で、いわゆる低給であつても財政に余裕がなければ、涙をのんでがまんしてもらうほかないのであります。しかしそうかといつて、今の官公吏の給与が高いとは決して思えません。
悪質なるところの事犯が起つて来るであろう、こういうことを警告し、これに反対し、この大修正について我々は闘つたのでありまするけれども、遂に我々の意見が容れられずして、殆んど原案に近いものが参議院を通過した、こういうような結果になつたのであります。
五月一日のメーデーにおいて、五・三〇の闘争において、青年は血を流して闘つたのである。三百万の組織労働者が数次にわたるゼネストに立ち上つたのである。全国の学生、教授、知識人、文化人をゆり動かしたのである。かくも広汎な国民大衆が、破防法粉砕という一つの政治目標のもとに動員されたことは、日本歴史にかつてなかつたことである。
「この中に加藤峯治という警視で、第一方面の予備隊長をやつておりました隊長でありますが、これは約三箇中隊、一箇中隊七十人として約二百十人の部下を率いて、皇居外苑を守つておつたのでありまするが、この一部暴徒が喚声をあげて宮城に向つて突進を始めましたので、これらの二百十名を率いまして、この部隊をかけ抜けまして、そうしてあの前にこの二百十名が体を犠牲に供して、この六千の暴徒と闘つたのであります。」
従つて吉田内閣打倒といつたスローガンを掲げまして闘つたのは、吉田さんも御承知の通りだと存じます。特に東京におきまするメーデーにおきましては、いわゆる五十万の大衆が集まつて、メーデー宣言を発し——ここにメーデー宣言を持つておりますから、読みたいのでございますが、時間がございませんから読みませんが、この中に明らかに、民族の独立と再軍備反対の要求をまつこうから掲げて闘つております。
に特に申し上げたいのは、この中に加藤峯治という警視で、第一方面の予備隊長をやつておりました隊長でありまするが、これは約三箇中隊、一箇中隊七十人として約二百十人の部下を率いて、皇居外苑を守つておつたのでありまするが、この一部暴徒が喚声をあげて宮城に向つて突進を始めましたので、これらの二百十名を率いまして、この部隊をかけ 抜けまして、そうしてあの前にこの二百十名が体を犠牲に供して、この六千の暴徒と闘つたのであります
(拍手)それゆえにこそ、われわれは、ほぞをかむ前に、予算審議の前に、行政協定の内容を徹底的にただそうとして闘つたのであります。この闘いこそは国会議員の崇高な義務であるからであります。 およそ国会議員の政府に対する質問権は、国会議員が国民によつて負託せられた国政審議の根底をなすものであり、この質問権の最大限の行使こそは、国会議員の義務の最高なるものと称してはばからないところであります。
そういうものをあたかも裁判所の検事の起訴状と考えて処理するということは、大きな私は間違いだと思うのでありますが、十分それに対して上司に向つて、院長に向つて抗議をして行くところの硬骨漢の検査課長がたくさんあればよいが、結局うつかり闘つたのでは自分が左遷される、あるいは首にされるというようなことで、検査院の絶対最高官である院長が検査官会議の議長であつて、それがかつて放題の判決を下すというようなことがあつたのでは
明治時代に我々の先輩が不平等條約改正のために闘つたのも、その歴史を見ましても、決してこういう国際的な文献の上に日本人が強迫、詐欺を行なつたというような文章を承認した事例がないのであります。而も政府の説明によりますると、これは單に言葉の綾であると言つておるわけでありまして、言葉の綾であるとすれば、もつとほかの用語を使用されるように折衝すべきであつたと思うのであります。
これらが一つになつて守るべきものは、自由主義であり、民主主義である、この目的のために闘つたのであります。そうししそれらを守つたのが、ヤルタであり、あるいはポツダムであり、カイロの約束であります。こういうようないろいろの会談、国際條約を今ではかつてに解釈して悪くなつておる。これを尋ねておる。だからかつてに解釈した結果として、日本においては共産主義がなぜいけなくなつたのか、これを聞いておるのです。
そうして二年間はこの山田氏の下に皆が一心不乱に生き抜くために闘つたのであります。その頃までは、丁度二十二年の夏の頃まで死亡者は五十名でありました。それから段々町の人の配給量を多くなり、給與以外に町の囚人から貰うパンの方が相当我々四千名の栄養を補佐したわけであります。